【思い出してきたから】見られながら、こんなことを考えていた。
特報! pic.twitter.com/x3uID0ZRcC
— 人の視線 (@hitonoshisen) 2017年9月23日
ちょっと明日、見られてた話をするので、整理をしたりしている。
(てか、誰か来てくれるのかな、1人も把握していない)
そうしたら、見られた”次の日”に書いてたメモを発見した。
走り書きの中に、私はこんなことを書いている。
昨日したことは、「人間にとって」なんてことは言えないが、私にとっては大事な鍵が含まれていた気がする。それだけ、剥き出しであったということだ。剥き出しの1日は、おそらく殻をかぶった状態での1年に相当する。
少なくとも私は1日で、こんなにも自分と向き合うハメになるとは思わなかった。剥き出しを決意したおかげで、自分の人間性があまりにも漏れて来た。
どうやら、よっぽどすごい体感だったみたい。情熱がすごい。
ただ私はしがない脚本家・演出家なので、何かを断言することは得意ではない。したがって、分析や人間論は他の方に任せて、私はごくごく普通に、あの日1日、自分の中で何が起こっていたかを、ただ連ねていくことにする。
と書き、1日の心の変遷を下記のように記している。
ただの箇条書き(抜粋)
・始まりは、「うるせーな!」の思い
・ハチ公前でスタート!震えるほどの恐怖で始まった。
・まったく見られないことに、笑いが止まらない(とても予想外)
・ラブホ街で、オトコの視線に踊らされる。
・無視されてもいいや!と思ったら天使が舞い降りた。
・「人の視線なんてどうでもいい」は、無視されてもいいやのもっと先、「どうであっても私は変わらない」の思い
・自分の倫理観が最大の視線となる。
・「どうか私の分も頑張ってくれ」と託される期待の多さに驚く。
・人生イチの勇気を、息つまる車内で振り絞る。
・大っ嫌いな地元は、一番私を受け入れてくれた。
・視線とは個人じゃなくて私自身だ、とか思ったら、宇宙に行った。
そしてまた、終わったばかりの興奮をこう書いている。(抜粋)
人間への執着が減って来た。生きることの執着が減って来た。
通り過ぎる人たちをずっと見ていた。見られたり無視されたりを繰り返した。一人一人が血の通った表情を見せてくれたけれど、あの人がいてもいなくても世界は変わらない。居なくなっても私は痛くもかゆくもない。それは、ネガティブな感じではなく、すごく愛おしい意味でどうでもいいなーと思った。
人生とか、生きるとか、どうでもいいなー、の気分だ。通り過ぎる人たちが、全部個体じゃなくてアリの集団を見ているような気分になった。個体差がもうわからない。私を見る奇異な目はものすごく鮮明なのに。1人1人の顔が鮮明に私の脳みそに直接飛んできて、その人たちのほかの顔(勝手な想像)も浮かんでくる。今目の前を歩いて一瞬私を見たおばさんが、スーパーで買い物をしている姿・顔を赤らめている姿、不機嫌な姿、そんな顔が一気にめくられてめくられて浮かんできて、次から次へといろんな人が浮かんできて、でも総じて、全て私の中で一緒だった。
感覚としては、「宇宙から、見てた。」
なんてことを、記していた。
ああ、そういえばそうだったな、と思い出す。
あれから時間が経ってしまったり、あれから色々あったりして、もうあの日「完成した!」なんて思った私はここには居ないけど、
今の私にもとても大事なことがあった気がするから、たどたどしくも辿っていきたいな、と。
誰か来てくれるかなあ、ちょっぴり不安なんだけどね、いい夜になったらいいな。
「ねぇ見て。見てみて。見られてみるから。」
~ 人間観察における哲学的人体実験の報告会 ~
登壇者:舘そらみ(実験台)、清水友輔(哲学者)、坂本遼(美術家)
日時:9月25日(月) 19:30~20:30
会場:観劇三昧 下北沢店
東京都世田谷区下北沢2-9-2 ZIP155ビル2F
公式ツイッター@hitonoshisen(人の視線)入場無料。予約不要だけど、ここからも登録できる。